【メモ】殺人罪の故意における動機の位置づけについて

殺人罪の故意に関する学説は様々である。
従前の通説は認識・認容説であったが、
裁判員制度導入にあたり検討されたいわゆる『難解法律概念』によれば
殺意とは「人を死亡させる可能性のある(高い)行為をそれと認識して行う場合」
(正確な引用でないが)
という議論設定が提案され、多くの場合に利用されている。

この設定によれば、動機はさして重要な位置づけにならない。
否定的な動機が認定された場合(※消極的な間接事実に求められる立証水準はさらに検討を要するが)
において、せいぜい、行為の危険性を否定しうる間接事実の一つであり、
あるいは危険性の認識を妨げうる間接事実の一つにとどまるだろう。

しかし、殺意には、上記になじむ認容型殺意もあれば、
まさに、殺したいと意欲する意欲型殺意もあると思われる。
前者において故意が成立するために要求される行為の客観的危険性の程度と
後者におけるそれとは同一水準ではなく、意欲している方がより可能性が小さくても
あるいは中途で断絶した場合には仮定的に想定される行為をも加味して故意の成立を
考える方が、一般人の感覚にそぐう気がする。

最近の学説では、客観的要素(危険性)、知的要素、意的要素の3要素に分類して
最低限必要な各要素の水準はあるようだが、その3要素の総合的な考慮によるという
整理が出ているらしい。
個々の要素と故意の成立について定式がないものが、裁判員裁判で使用に耐えるかには疑問があるが、
刑法上の殺意の実質を改めて把握しようとするもののように思われる。

途中をはしょって簡単に動機を位置づけると

認容型殺意では、消極的動機は間接事実として、積極的に立証されると、
々坩戮隆躙雲、危険性の認識、を妨げうる。
(例えば、,蓮頭を叩いたがそんなに強く叩いたはずはない。△蓮∋爐鵑任曚靴ないのだから
危険だと認識してしたはずがない)

意欲型殺意では、積極的動機はより直接的に殺意を裏付けるものであり、
これが立証されないと、故意の成立が妨げられることになる。
(要するに、「殺そう」としていたと立証できないのだから、殺人(未遂)罪とはいえない)

となる。


認容型殺意と意欲型殺意の分水嶺については、
客観的危険性の程度が、認容型として殺意を認定できる水準に達している場合と
殺人といえる程度の最低限の危険性の水準はあるが
認容型での判断が可能な水準に達していない(かもしれない)場合と
になると思われる。