虞犯の理解に関連して

虞犯についてちょっと確認をしていた際に
『ビギナーズ少年法(第2版補訂版)』という本を読んでいて何箇所か気になりました。
 
「虞犯行為を理由とした補導に対しては近年きわめて慎重になってきており、児童虐待や養育放棄など、劣悪な家庭環境から少年を引き離すことが福祉的見地から適切だと判断された場合にのみ、それを強制的かつ合法的に行う手段として適用される傾向にある。」(同書41ページ)
 
前者の虞犯の取り扱いが慎重にされているというのは
昭和50年代に2500~3200人の虞犯送致があったが、
近年では1500人前後というデータがあり(平成20年は500人代)
これは未成年者人口の減少(3600万人前後→2300万人前後)を上回る減少度合いなので、
そのとおりと思われます(等比数級的に犯罪は増えるという点は考慮せず、単純に等差数級的な発想ですが)。
 
しかし、後者の、「児童虐待や養育放棄など、劣悪な家庭環境から少年を引き離すことが
福祉的見地から適切と判断された場合にのみ」、手段として適用される傾向というのは疑問です。
ほかの少年法の書籍、例えば『注釈少年法』、『子どもの法律入門』、『新訂版 少年法の解説』などでは
そのような指摘はみられません。
具体例としても、虞犯という言葉のとおり、犯罪っぽいがそこに至らない
(処罰不能・被害届不提出などで通常は立件されない、証拠不十分)事案ということで、
例えば、家庭内暴力(暴行、傷害、器物損壊)、自宅の金品の持ち出し、学校での威圧行為・問題行為、
暴力団関係者・不良な成人と関係していて薬物使用を自認
(尿検査では陽性反応がでなかったが注射痕が確認されるなど)、
不良集団と一緒にいてオートバイの後部座席にいるのが目撃されて
バイクもいじっているが無免許運転の現認はない、といったものなどが想定できるように思えます。

つまり、親が、子供の指導に手を焼いていたり、家出をしてしまっている、不良者と交友があるなどし、
その上で犯罪になりそうだけど、諸事情から犯罪としての立件・立証が難しいという状態がある。
その際、虞犯という形式で扱わざるを得ない、というケースは相当に多いと思います。
もちろん、通常の犯罪以上に家庭内に問題があるケースも少なくないでしょうが、
主として、養育放棄、虐待が原因で発現した虞犯への対応、すなわち
少年が家庭の被害者的存在であり、虞犯がその救済的手段であるという見方は不適当でしょう。
 
 
また、「出会い系サイト規制法の問題点」ということで
「本法の目的は、「児童買春その他の犯罪から児童を保護し、もって児童の健全な育成に資する」ことで、
(中略)児童の「売買春」等の誘引書き込みを処罰するのは、保護目的と矛盾するのではないか、という点である。
(中略)「誘引の書き込みをしてはならない」とする規範を児童に向けるにしても、罰則を置く必要性があったかどうか、疑問である。もし保護の必要性があるというのであれば、「自己の徳性を害する」ことを理由に「虞犯」として家庭裁判所へ送致することは可能であろう。未成年者喫煙・飲酒禁止法が、禁止規範はあっても未成年者自身に適用する罰則を置かないのと同様に考えられないものであろうか。」(同書256ページ)

立法論に突っ込むのもあれですので、虞犯に関する部分だけみます(ただし、付言1・2参照)。
そもそも、虞犯少年というのは、単に虞犯事由を充足するだけでは足りず、
虞犯性(犯罪をおかす具体的なおそれ)の存在も必要ですから、
筆者がいうように保護の必要性があったとしても、
それで虞犯として送致可能になるとは限らず、法の規定を変えた場合には、
保護が困難・遅延する少年が出てくる可能性はあるでしょう。
また、非処罰化することで捜査が(十分に・全く)行えず、
虞犯の場合での証拠収集や立証の難しさが生じる点を捨象した議論のように思えました。
ということで、この点についても少々違和感を覚えました。

(付言1・立法趣旨の点)
 子供の保護を目的とした法律なのに子供を処罰の対象とするのはおかしい、という趣旨ですが、
 例えば、麻薬及び向精神薬取締法は、同薬物「の濫用による保健衛生上の危害を防止し、
 もつて公共の福祉の増進を図ることを目的とする」とした上で使用者を処罰する規定があります。
 他の立法と比べて特におかしいとまではいえないように思います。
(付言2・全件送致の点)
 また、筆者は家裁送致は少年に厳しいとも指摘していますが、
 自転車の占有離脱物横領や小さい万引きを送致するな、というようなもので、
 それほど説得力があるようには思えません。
 軽微な犯罪を起こし家裁で扱われたとしても、
 (要保護性が低ければ、審判不開始、不処分などにより、一回的な保護的措置で終了しますので)
 0~2回程度の出頭で済むものであって、少年に酷な結果になることはないと思われます。
 さらに、今は小さい犯罪から適正な対応をするのが望ましい、例えば、
 万引きをゲートウェイ犯罪と位置付けてきているのが現状で、その趣旨・狙いに照らし合わせてみたとき、
 誘引書き込みもネット上のゲートウェイ的なものとしてみられ、それほど不当なものとも思えません。
 
さて、実のところ、どちらの点もそれ自体では大した話ではないと思います。
にもかかわらず、これらが私の方で気になったのは、この書籍の中で全体を通じて、
少年を家庭環境や社会情勢の被害者とみる見方が強く、その端的な徴表であると感じられたためです。
 
たしかに、少年の保護という側面が少年法にはありますが、
前提には、少年において非行事実・虞犯性が存在し、
そこから伺われる問題性を改善更生するために
少年法上の処分が行われるという構造になっているわけであって、
かわいそうな少年を保護してあげるという、
単純な少年福祉の手段としてのものではないという点が見過ごされている
(かなり小さくみられている)のではないか、ということです。
 
もちろん福祉的視点、少年保護的視点を欠くことはできませんが、
少年法の理解にあたって、これに偏するのもまた妥当ではないと思い、
少々書かせていただいた次第です。
なお、感覚の違いということでは、家庭裁判所による職権調査の議論における
家裁側と在野側との論考の中でも良く感じられるところかと思いますが、
この点はいずれまた。
 
*同書のため、虞犯について、その要件効果、制度趣旨、処分根拠論、存在の当否等について
 別のところで、それなりに触れられていたことは明らかにしておきます。(186ページ以下など)