ロシアによるウクライナ侵攻からウクライナ側の国家による強制を語る視点に違和感を感じた

(以下引用)
2022.5.3 信濃毎日新聞一面
安全保障のジレンマ 憲法が鳴らす警鐘 恐怖の渦にのみ込まれる(論説主幹 丸山貢一)

 兵士は国家のために人を殺し、自ら犠牲になるのも本望と言う。
 長野市の女子高校生(17)は、それが当然のように報道されていることに恐怖を感じた。
 ロシアに侵略されたウクライナは、大統領の総動員令で18~60歳の男性の出国を禁じた。避難する家族と離れ離れになる。
 7歳の女児が「お父さんが誇らしい」と話すうちに涙をこぼし始めた。その場面をテレビで見た高校生は胸が締め付けられた。
 3月半ば、友人らにSNSなどで呼びかけ、約50人で中心街をデモ行進して平和を訴えた。
 戦争は、国家が民(たみ)の身体や心を支配し動員する。私たちは戦況報道に慣れ、国家の強制を「怖い」と思う感性を失っていないか。
(以下省略)
 記事は冒頭でウクライナという国による国民への強制を指摘して、より一般的な国家による強制への恐怖や警戒を訴えかける内容であった。
 論理的にはそんな議論の立て方も出来るだろうが、国家の存亡と国民全体への生命財産の喪失のおそれという緊急事態に直面した側のとった措置を槍玉に挙げることに違和感を覚えた。例えて言えば、防衛状況にある者のした暴行のみを取り上げて、暴力に訴えるのは良くないと論じて、背景にあるものを意図的に抹消してしまうような感じだ。
 報道を見聞きする限り、侵略に参加しているロシア兵士の中には、国家の意図を知らされずに行動し、嫌々侵攻のため人を殺傷し建物を破壊する兵士もいることだろう。国家による強制を論じるなら、そちら側、すなわち正当な理由もなく人間最大の禁忌を強制する国家の観点を用いても良いはずだが、そちらは全く言及されていない。
 一般に、国家が国民に対し、TPO(時、場所、状況)を踏まえてどの程度の強制が許されるか、許すべきではないのかという議論自体はいろいろありえると思う(なお、この記事のような非論理的な警戒は、中国の現実的脅威や大規模な感染症の流行の前では、結果として、逆に国民の生命財産の大きく損ないかねないだろうと考えた。)。
 ただ、この記事のようにウクライナ側に問題の焦点を当てているのは、かえってロシアの横暴に目をつぶり被害者側のウクライナを責める形であって印象的にも受け入れられないだろうと感じた。
 信濃毎日新聞はロシアや中国の関係になるとこういう中立的でないと感じる論調が目立つが、あるいはそちら側の個人・団体から金銭的な支援でも受けているのかなと勘ぐりたくなる。