小学生国語の教科書「一つの花」

 戦時中、一つだけちょうだいが口ぐせになった女の子と、その父親が出征に行く出来事を描いた子供向けの話。「一つの花」に、かけがえのない命、という意味を込めたと読める短い話。

 音読を聞きながら、いまいち話に対する違和感がぬぐえなかったり、お母さんとお父さんが女の子の口ぐせを否定的に語る場面の意味合いがよく理解できなかったりした。違和感の正体がよく分からなかったこともあり、少しネットで調べてみた。

 そうすると、冒頭の、ひとつだけちょうだい、を初めて覚えた言葉としているところに、発達段階を全く無視しているという指摘があった。確かに、連語を初めて覚えるはずがない。まま、とか、まんま、とか単語があり、そのあと二語文になりという過程を経るはず。ここでは、せいぜい後に出てくる「口ぐせ」という表現を当てておけば違和感なく読めただろうと思った。

 次に、最後の場面が、戦後からさほど経っていないのに、母子家庭と思しき家族が昼食について「肉か魚か」選べる点にも違和感を感じていたが、ちょっと調べると、昭和30年代だと、田舎の方では栄養失調の子供の問題(日常の動物性たんぱく質不足)が取り上げられている一方で、都会のスーパーマーケットには生鮮食品が多く並んでいる様子もあるようだった。田舎出身の自分の感覚とは違うところでお話があるんだろうと、あまり納得できないものの、ここはまあそういうものかとなった。

 それで、先ほどの父母の会話については、主題や前後の話なども参考に考えると、どうやら、女の子個人に対する否定的評価というよりも、そういう状態にさせてしまった社会情勢に対する否定的なニュアンスで読んだ方が全体として通じるように思えた。お母さんの台詞が、女の子の具体的な行動をあげて否定的な評価をしているものだから、どうしても女の子の行動そのものをどうとらえるかという意味合いのものと理解しようと思えてしまうのだが、そういう口ぐせになり、かつ、世間では通じない意味で使ってしまっていること自体に至っている環境への嘆息と見れば、次のお父さんの台詞が理解しやすくなった。

 お父さんは女の子の将来について、一つだけ、あるいは一つさえも手に入らないという趣旨のことを言っていて、これが社会に関する話なら、そういった厳しい社会情勢の中で生き続けて、幸せも容易に享受できないんではないかという嘆息として理解するということになると思えた。

 そうだと、ひとつだけ、に付着した否定的イメージが、個人に密着したものでなくなることで緩和されて、場面転換しての「一つだけの花に」に肯定的な意味を持たせたところをもう少し受け入れやすいようになると思えた。

 そして、一つだけの花(コスモス)は、かけがえのない命(具体的には、女の子、あるいは出征に行くお父さん、ことによればお母さん、それぞれの個人全体をさしたものかもしれないが)、であって、戦後に花(コスモス)がいっぱい咲いているのは、戦争が終わって命を多く育める時代が来ていることの暗喩としてみることができるように思われた。

 と自分で書きつつ、やはり、ひとつだけちょうだい、に対するお母さんの否定的評価の台詞が素直に飲み込めなくて難しかった。ここの台詞がもう少し違っていたらそう読めたかもしれないが、上記のように読むのは自分勝手すぎると思えた。ただ、そうすると、やっぱり腑に落ちない話だなあと思ってしまうのだが。

 名作と呼ばれているらしいが、名作って難しいね。