裁判員裁判における「更生」

マスコミ報道等をみていると、裁判員裁判では、刑罰の期間について
更生のため、という表現が使われることが多いように思います。
裁判官裁判では、執行猶予が付く時や死刑判決を回避するかどうかの際に出てくることがあっても
それ以外の場合には、あまり用いられなかったものだと感じます。
 
では、なぜ、そのような違いが出るのでしょうか。
それは、裁判員の方々が量刑においては人格的な立ち直りという点に、
従前の裁判官よりも力点を置いているからではないでしょうか。
良い人か、悪い人かという観点が量刑に大きな振幅をもたらすというわけです。
 
もっとも、私としてはこの点について、いささか危惧を抱く面もあります。
 一つには、人格的な責任を重視すると、行為責任という刑罰の基本的な部分が損なわれ、
更生に乏しいゆえに過重な刑罰に処せられるという危険性(従前の刑罰理論との不整合)が
あるように思われます。軽減する方向には用いても、過重する理由とされてしまわないかについては
今後、よく見ていく必要があるのではないでしょうか。
 
ほかには、そもそも、更生に関する証拠資料は刑事裁判において
本質的には収拾されてないのに、ということです。
捜査不十分ということに対する裁判員の認識は厳しいのに
(立川支部で出された一部無罪では、捜査が不十分だということが無罪の理由とされているようです)、
更生に関する資料は、少年事件等に比較したら、ろくに用意されておらず、
科学的な判断や分析(心理テスト等)がなされているわけでもないのです。
あくまでも、口頭で読み上げられた被告人の身上、裁判での態度・雰囲気、言動などによって
決まってきてしまうのに、この点の将来予測に関する、おそれが感じられないのはかなり心配です。
 
犯人が更生しないよりも更生する方がずっと良いことであるのは間違いないですし、
更生の観点からみても問題のない事案もあることでしょうが、
裁判員裁判で扱うような重大な事案一般については、
行為に対して処罰をする、これによって本人が更生すればめでたい
程度の感覚でいた方がいろいろな意味で無難だと思います。
少年事件では、更生(単に、犯罪をしないというだけでなく、
通常程度の生活を営めるようにする〔性格等の自覚・改善や環境への働きかけ〕)が重視されていますが、
成人事件ではそこまではやれないということなのだと思います。
 
したがって、更生を重視する裁判員というのは、実のところ
成人事件よりも少年事件に向いているのかもしれない、とふと思ったりします。
 
なにはともあれ、今後、裁判員制度はさらに事例を集積していくことでしょうが、
従前より刑罰の振幅は大きいことがはっきりしてくるのだろうと思います。
また、余談ですが、直感的には、裁判員裁判では、長い目でみれば
否認事件の増加と無罪判断の増加という様相も出てくるのではないかと思っています。