事実の認定と被疑者・被告人供述の信用性と有罪答弁制度

昔は科学的証拠は乏しく第三者の的確な目撃があることも乏しい。
盗品の近接所持であったり、犯人たちの自白であったり、あるいは詐術的な誘導をもって
とその様々な乏しさの中で、犯人たちを明らかにして刑罰をかしてきたと思う。

これが時間がたつにつれ、指紋採取、血液検査、DNA型検査
あるいは、防犯カメラ映像などの客観的な証拠が多く手に入るようになってきて、
供述というものをある程度補助的な証拠と位置付けても犯人を明らかにできるようになってきた。

また、裁判員制度の導入により、
当人の法廷での供述が最も有意義なものとの取り扱いも
強く行われるようになってきた。
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実のところ、(被疑者・被告)人の供述の信用性については、
秘密の暴露があれば信用できるとか一貫していれば信用できるとか
人はわざわざ不利益なことを言わないとかは
それほど強固で的確な経験則とはいえず、多くの例外が含まれているか
そもそも注意則程度と思われる。

実際には秘密の暴露があろうがその核心部分以外には居意を織り交ぜる余地は十分あるし、
一貫して認めていても誰かを庇うとか、ただ、委縮して言い分を述べられなかったとか
不利益なことを言うのは別の利益である当座の身柄解放を得るための恣意的なものであるとか
いろいろと混じってくる。


それでも、過去にそれらの経験則(注意則)がそれなりに大手を振っていたのは
犯人検挙による治安維持等の利益と冤罪処罰の不利益とを潜在的ないし無意識的にはかりにかけて
有罪認定に必要な照明の程度(合理的疑いの程度)をある程度の高さにとどめていたから
なのかもしれない。

そして、それらは科学捜査の発達した現代では同じようには採用されなくなってきたのかもしれない。

では、そうすると、被疑者・被告人の刻々と変化し、又は変化しうる供述に対して
逐一お付き合いをしてその信用性判断に翻弄されなければならないのだろうか。
それはそれで、多大な、無駄なコストをかけているようにも思われることがある。

これを回避するための方策として、アメリカなどのように、事件に対する認否の際に、有罪を認める答弁をした場合には、
制度としてそれ以上の立証に入らないこと(日本の場合は憲法上自白のみで有罪とすることはできないので
犯罪事実の存在を示す証拠のみの取り調べは行うことになろうが、あくまでもその限度)として、
被告人に詳しい話を聞くことなく情状関係の調査を行って量刑をしてしまえばよいというのも一案かと思える。
日本人の真相解明欲求が被告人から事件に関する供述を詳しく聞こうとする欲求につながり、
それがかえって被告人の供述に振り回され、供述の信用性という渦に飲み込まれる契機を作っているように
思われるので、その根元を断ってしまうのである。

被疑者が捜査段階では黙秘あるいは変転とする弁解を重ねつつ、やむなく起訴された場合には
書面あるいは勾留理由開示などの手続で自白する供述をして保釈を獲得し、
その後、公判では保釈を得るために功利的に自白しただけで真実は違うと改めて否認するというような
裁判手続を翻弄させるような流れは、不誠実なあり方に見えるし、その間に費やされるコストも大きいと思える。
有罪答弁という制度を明確な関門とすることでそれらが若干でも解消されたらそれなりのメリットもあるのではないかと思う。