表現の不自由展の中止について

表現活動が制約されることは遺憾だと思う。

今回の中止が検閲に当たらないのはともかく、表現の自由は最大限に尊重されるべきものだからである。

 

ただ、今回の問題が大きな反響を呼び、中止やむなしまで至った点につき、一般大衆の無知・不見識をなじり、表現者を高位に置くことで済ませてしまうのは、今後同様の問題が生じうる際の何らの教訓ともならないだろう。

 

なぜ、多くの市民が不満を持ち、苦情の電話やFAXを多数よこしたのだろう。

記事を見る限りでは、一方的な政治的な主張に対する税金の投入について非難が集まっていた。運営者側やその擁護側が表現の自由の問題に終始するのとは違う。仮に、表現の自由に名を借りた政治活動に公的団体が資金供与を公然とするのであれば、行政の政治的中立性の観点から問題がある。

これが誤解なのか誤解でないのか、誤解だとしたら何故起きてどう解けばいいのかという問題がある。

 

この点は、問題に詳しい人でなければ明らかにできないことかもしれない。

ただ、いくつかの記事の中でセンシティブなものを扱う以上、事前の議論を尽くす、両方の主張に配慮するといった方法が指摘されていたのは興味深い。(後者については慰安婦像を上げるなら、逆に韓国で発禁処分となっている「帝国の慰安婦」という研究書も併せて展示するなどの方法があったかもしれない)

表現発表の自由が不当に制約されるのはよろしくないが、表現の攻撃性とその緩和についても国内外で議論が深まる必要はあると思う。フランスの風刺週刊紙「シャルリ・エブド」襲撃事件の前後の意見なども参考になるのではないか。

https://toyokeizai.net/articles/-/58879

フランスでも、「行き過ぎた風刺」は論点に
表現の自由は、無制限の自由ではない