小林正啓「こんな日弁連に誰がした?」

近年の、法曹人口増員を含めた司法制度改革における日弁連の「敗北」について綴った本。
 
これは、日弁連が、法曹人口増員に反対して敗れ、給費制の廃止に反対したけれども敗れ、
増員を受け入れる代わりに付けた条件の獲得でも敗れ、という
近年のやぶれかぶれな日弁連執行部の活動結果をまとめた本です。
 
この中では、矢口洪一最高裁長官は、裁判所の立場(権威・力?)の向上という目的のため、
首尾一貫して行動を行っていた人物として対比されており、感心しました。
強制加入団体である日弁連は、内在的に、意見の一致を見ることが難しく、
個々の会員は、自分の意見とは違う、という反論を常に提示できてしまうので、
なかなか深まらない(一度受け入れたことを反古にしやすい)立場であって、
当事者能力に疑問を呈されたという評価も分かるような気がします。
従前の法曹二者はともかく、
ほかからしたら、当事者能力のないオブザーバー扱いをされてしまうのかもしれません。
 (現在、相手のあることについて、従前に定まった方針を変えた上、 
それと同程度の提案もできないままで時間を費やし、
相手の国の信用を失いつつあるという事態を見ている気がします)
 
他のブログ等を拝見すると
「法曹一元」の表看板で屈服したつもりはない、「苦渋の選択だった」という話もあるようです。
事実誤認ということであれば、きちんとそれなりの文章で反駁されることになれば、
一部外者としてはより多元的に状況が把握できてなによりだと思います。
 
ともあれ、本書が指摘する「法曹一元」とは弁護士会による裁判所支配であるというのは
なるほどとうなずかされました。
 
「司法官僚」という本がありましたが、
行政訴訟でもっと国が負けるようになるためにはどうすればいいかという視点で書かれていて、
結局、最高裁事務総局が悪い、あの支配を打破して、変えていかないと行政訴訟で国に勝てないというわけですが、
事案は様々で、その著者にとっては「当然」国が負けるべきと思っている事件でも
ほかの人にとってみればそうではないということはいくらでもあることでしょう。
そうすると、結局は、自分の価値観に裁判所という物をどうやって近づけてコントロールするのか
そのためにはどうしたらいいのか、という話につながっていくように思います。
正常な人が異常な物をみてゆがんでいると言っているのか、
異常な人が正常な物をみてゆがんでいると言っているのかは、簡単に判別することができないわけです。
その難しさの中で、国家や社会のあり方に対する一つの“正解”を出すのが裁判所というものなのでしょう。
 
話が横道にそれましたが、
要するに、法曹一元で言われたのは、特定の立場の人にとってみると裁判所は非常に問題がある組織であり、
それを改革する、自分達の考えに近い者を送りこんで変えるのだという発想だと思います。
もし、その立場が正しければ問題ないのでしょうが、賛否両論あるような争点の場合には、選出権限を使って、組織の考えを一方向へ無理やり導く形になりかねないように思います。
組織内部の人から見れば、それはむしろ思想弾圧、裁判の独立性への間接的侵害にうつるかもしれません。
したがって、「法曹一元」が、独自の制度の歴史的積み重ねが既にある日本において、その変化により裁判所がより良くなるシステムであると具体的な論証されないと、今後も、このような「法曹一元」は実現していかない、少なくとも組織内部の人はそれに抵抗するのではないでしょうか。
 
なお、仮に一元化した場合、選出側が一枚岩でなく、選出権が一部の者に集中しない場合には、
裁判官の選出方法によっては、例えば、大企業よりの裁判官を増やすとか、労働者寄りの裁判官を増やすとか、保守対革新、弱者重視あるいは競争重視など、さまざまな観点から、利益団体が自己の利益のため、自分に有利な裁判官を増やそうという行動に出るかもしれません。
そうなると、裁判官というのは、むしろひどく政治的存在になるのかもしれません。
 
一昔前は、最高裁が裁判官の独立を侵害していると言われていました、
しかし、現在では、本当に裁判官の独立を侵害しようとしているのはどこなのか、
よく見極めなければならないのでしょう。
そんなことを、表題の本を読んで考えました。