民事の「過失」と刑事の「過失」

先日、教師らによる津波の誘導避難の過失が争われた大川小学校の裁判の判決があり、
市・県は原告15名に対して「14億円余り」の損害賠償が命じられた。

このように大変大きな金額となったのは、教師らに大きな誤りがあったからだろうか?
そのように受け取る人がいるかもしれない。
それは全くの間違いである、とまでいうつもりはないが、
かなり限定的なところに影響するにとどまるものであって、
基本的には民事の損害賠償責任に対する理解としては正しくないだろう。

いろいろ捨象して言うと
民事の損害賠償とは、要するに何らかの損害が発生した際
それを金銭換算して、誰に埋め合わせをさせるかということである。

1対1の場面であれば、どちらも過失がなければそれぞれで損害を負担することになる。
一方に大きな過失があって、他方に過失がない場合には、当然大きな過失がある方が負担することになる。

では一方の過失が小さいが、他方には全く過失がない場合にはどうなるかだが
その場合にも(信義則などで責任を限定する理屈が特別に働かない限りは)
過失があった方が損害を負担することになる。

ここで、損害の計算だが、年少者の死亡の場合には
大きくは①慰謝料(生命を奪われた精神的苦痛〔擬制的だが〕)と②逸失利益(将来稼ぐ見込み)である。
過失の大きさが②とは無関係であることは自明である。
①についても、なまじの過失の大小で、上記慰謝料の多寡が大きく変わるとは考えにくいので
金額に影響がないわけではないが限定な要素ということになる。

したがって、民事において多額の損害賠償を命じられた場合には、
命じられた者の過失は大きくないが、損害が非常に大きかったことから、
多額の賠償責任を負うことになった可能性もある。

上記の津波避難の様子を詳しく知るわけではないが、
急な大規模災害において、ごく短時間の中で、例えば滑る危険もある裏山を適切に選択するのは
簡単ではないと想像できるから、過失があるとしても大きくなさそうだと思われる。

では、過失の大きさは法律的には影響しないものなのか
ここで刑事の事例を考えてみたい。
過失があったとされる亡くなった教師が生存していた場合に
その教師を(業務上・重・軽)過失致死罪で刑事責任を問うかどうかである。

ほとんどの人は、教師自身も命の危険にさらされていた状況であり、
その判断ミス(過失)を責めて刑務所に送るのはかわいそうだ、と思うのではないだろうか。
その結論が、まさに「過失の大きさ」を考えていることになるだろう。

例えば、上記状況と異なった、
容易かつ安全に裏山に避難できるにもかかわらず、従前のマニュアルを墨守し、
明確に危険な広場に人々を強引に連れ出したという状況を想定してみたい。

これに対しては自らが危険に身を晒していたとしても
その判断ミスはそれなりに処罰されるべきではないかと考える人は多そうである。

実際にも、教師生徒の関係において、、
柔道の指導で安全対策が徹底されずに死亡事故を起こした場合に
業務上過失致死罪により起訴がなされて執行猶予付きの禁錮刑に処せられた判決もある。

このように、刑事では、被告人の「過失」の大小が、裁判にかけるかどうかだけでなく
その量刑にも大きな影響も及ぼしているといえる。

以上のとおりで、民事と刑事では「過失」の大小が異なって作用することがある。