第一章 アメリカ合衆国少年裁判所の歴史の概要 第1節 第2節

第一章 アメリカ合衆国少年裁判所の歴史の概要
 この章では、今日の少年審判手続(juvenile court procedures)の背景を描写する。

第一節 アメリカ合衆国では、いつ最初の少年裁判所が設立されたか?
最初の少年裁判所は1899年に設立された。
しかしながら、全ての州に少年裁判所が設立されたのは1945年であった。

第二節 少年裁判所が設立される前は、子供たちはどう取り扱われていた(deal with)か?
19世紀のほとんどの農村社会では、親、教会、地域共同体が犯罪を行った子供を罰していた。
子供は、一般的には暴力により、時には残酷なやり方で(brutally)懲罰された。
19世紀後半の産業革命に伴う都市化は子供にとって特別な問題をもたらした。
多くは、大変な貧困や児童労働を含め、厳しい状態におかれた。
その当時、面倒(犯罪を行ったことによるか、虐待(abuse)や養育放棄(neglect)の犠牲になったことによるか)を起こした子供たちは、しばしば働かされるか、親類の元へ追い払われた。
いわゆる現代のjuvenile hallsの先駆け(precursors)である”再生学校(reform schools)”も設立された。
これらの学校の表向きの目的は、技能と訓練を与えることによって子供を改変、再生することにあった。
実際には、これらの施設はしばしば倉庫型の刑務所(warehouse-type jails)に大差がなかった。いくつかは嘆かわしい状態のそれで、そこで学習されることの大半は、より上手な犯罪者になる方法であった。

20世紀初頭ころ、多くの社会指導者が再生学校(reform schools)が機能していないと信じるようになった。
彼らは、子供は単なる小さい大人ではなく、大人とは異なって取り扱われるべき特別の必要がある人々であると理解し始めた。
結果として、【刑事裁判制度から】少年審判制度を分離するための運動が始まった。

(以上、仮訳。予告なく変更することがあります)
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日本で旧少年法が制定されたのは大正11年になります。少年審判所によって取り扱われることになりました。現在の少年法の大枠は、戦後となる昭和23年に公布されたもので、当時のアメリカからの影響を強く受けています。

さて、非行少年を含めた少年の保護に関しては、明治以前には、個人の篤志家による少年福祉等がなされていた模様だが、正式な法制度としてのものは良く知りません。すみません。ただ、悲田院聖徳太子)、育児院(和気広虫)、養育館、遊児厰(江戸時代)といった施設が作られたりもしたらしいです。

明治以降の日本における非行少年の取扱施設・根拠法の流れは大まかに次のとおりのようです。
「矯正院」(14歳以上の非行少年を扱う。感化院は通常14歳未満の少年を入院させる施設に?。旧少年法・矯正院法 大正11年公布)→「少年院」(現少年法 昭和23年公布)。

「感化院」(感化法 明治33年公布)→「少年教護院」(少年教護法 昭和8年改正公布)→「教護院」(児童福祉法 昭和22年公布)→「児童自立支援施設」(改正児童福祉法 平成9年改正公布)。

また、上記とは少々ことなり、私的な孤児院等?→「孤児院」(児童福祉法 昭和22年公布)→「児童養護施設」(改正児童福祉法 平成9年改正公布)。
という非行少年でなく、養育環境のない子供を保護する施設もあります。

少年の処遇については昨今、様々な議論もあるところですが、少年は、一般に可塑性に富むとされており、下手な刑罰により犯罪性の固着と犯罪技能の習得をさせてしまうよりも、早期の矯正教育を通じて、規範意識・健全な社会適応能力を身につけ、将来の健全な社会の一員となるようにしてもらうのが、のぞましいともいえます。
なんといっても犯罪少年といえども、死刑でもならない限りは、いずれかの段階で社会に戻ってくるわけで、一般的には、長期の刑罰により社会適応力を奪ってしまうことよりも、少年時代で吸収力があるうちに、教育的措置を中心として、自己の行為を真摯に振り返らせるとともに、就労精神を持たせるなどした上で、社会に戻すことが結局は、全体として良いとも思われるのです。

(以上、仮解説・感想。予告なく変更することがあります。H21.7.25一部変更)