足利事件の自白偏重批判に思う

足利事件につき、DNA再鑑定の結果、不一致となり、
釈放、検察の謝罪を経て、無罪判決が出ることが確実となった。

さて、足利事件はえん罪だったわけだが、
その問題点に関する論評で、
自白偏重のためだ、取り調べの可視化が必要だ
という批判も(ネット上などで)拝見する。

しかし、私はそれには違和感がある。
なぜかというと、
釈放された方は、取り調べにおいて他にも2件ほど自白をしていたが、
その2件については検察官が不起訴処分にしていたという話が聞いたことがあるからだ。
検察官はその権限を使って、危ない自白でも一部は回避していたのであって、
その点からすると、偏重していたというのがこの事件最大の教訓なのだろうかと疑問を抱いたのだ。

むしろ、この事件で最も大切な教訓は、危うい自白を支えることになったDNA鑑定のずさんさ、危険性と
それに対して、精密、適切、客観的な鑑定、科学法則の適用の重要性を
再認識させたことではないかと思う。
いわゆる客観証拠は、それが客観的に見えるからこそ、重視してしまいがちであるが、
それもときには浮き石のように頼りない場合があるということだと思う。

科学捜査隆盛の時代、ぜひ、真実発見に資する客観証拠の収集保存に向けた一層の努力をしてもらいたいと思う。