刑事手続新制度との向き合い方

というタイトルで取りあげた裁判員裁判判決だが、
先般、日本弁護士連合会の会長談話による批判がなされたとのこと。
 
 日弁連会長「裁判員裁判批判」談話の苦しさ(元「法律新聞」編集長の弁護士観察日記)
 http://kounomaki.blog84.fc2.com/blog-entry-513.html
 発達障害のある被告人による実姉刺殺事件の大阪地裁判決に関する会長談話(日本弁護士連合会)
 http://www.nichibenren.or.jp/activity/document/statement/year/2012/120810_3.html
 
 会長談話の要旨は、
1 判決内容が問題であること、
(①発達障害を不利な情状と扱った法的問題、
 ②発達障害に対する理解不足、
 ③刑務所での更生は期待できないのに長期収容としたこと)
2 その原因が、裁判員に対する情報提供不足にあること
(①鑑定手続等により量刑判断に必要な医学的・社会福祉的情報が提供不足、
 ②評議で裁判長から適切に法令の説明や解釈が行われなかったこと)
としたものである。
 
 疑問点をいくつか。
 1-①は、前述したが、不利な情状として扱ったという評価になるか自体が疑問と思える。
そのように読めるとしたら、むしろ、裁判員裁判では、判決文は多少不正確であっても裁判員が理解できる分かりやすい表現が用いられざるを得ない、という制度的問題に由来するように思えた。
 
 1-②は、弁護人の弁護が裁判員に届かなかったという指摘はないのか、という疑問がある。被告人のために活動するものがいない糾問的裁判ならいざしらず、被告人の権利を守り、その立場にそった行動ができる弁護士(弁護人)がいるからには、弁護人の法廷活動の内容(質量)を踏まえた上でないと、裁判員なり裁判官の理解不足を責めるのは筋違いになりかねないと感じた。
(仮に、一般常識とはいえない、法廷に出ていない知識・資料に基づいて裁判官が裁判員に説明するであれば、それは評議室という密室において、私知による特殊な説得をしたということであり、刑事裁判手続上、問題になる可能性もあると思われる)
 
 1-③は、市民一般からはどのように理解されるかが疑問に思えた。どうせ治りにくいなら、早く出す意味もない、治らないような場所には長くいさせるなという理由(収容期間を短くする積極的理由)にはならないといわれるのではないか。
 そして、2-①②だが、裁判員裁判自体を非難するのではなく、適切な訴訟運営による’誘導’が必要とされるということは苦笑してしまう。裁判員制度導入当初は、裁判官が裁判員を誘導して従前のような裁判を行うのであれば意味が無い、裁判員の良識を発揮させよ、という意見が強く弁護士会・学者から出されていたように感じていたからだ。都合が悪くなると、従前の言を翻して舵を切る。先を見据えた制度設計・導入をしていない証左ではないかと不審に思う。
 
 いくつかのコメント・ブログをみたが、
 
 危険性を露呈した裁判員裁判(元「法律新聞」編集長の弁護士観察日記)
 http://kounomaki.blog84.fc2.com/blog-entry-505.html
 裁判員制度の本当の脅威(元「法律新聞」編集長の弁護士観察日記)
 http://kounomaki.blog84.fc2.com/blog-entry-510.html
 危険だから刑務所へ!? 裁判員裁判、偏見の極致(弁護士 猪野亨のブログ)
 http://inotoru.dtiblog.com/blog-entry-555.html
 驚愕の判決を新聞はどう報道したか?(裁判員裁判はいらない!大運動)
 http://no-saiban-in.org/news/2012/08/post-33.html
 こうなることは分かっていたことじゃないの。(弁護士のため息)
 http://t-m-lawyer.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-4e49.html

 私としては、下記の文章がポイントをついていると思うのであって、
>結論的に制度は正しいという前提にどうしても立つのであれば、
>あるいは「民主的」なこの制度を傷付けるな、というのであれば、
>やはり、こういうしかありません。「これでいいのだ」と。
>つまり、治安維持を優先し、再犯を恐れ、刑務所に閉じ込めておけ、というのは、
>市民の意思、社会の要請であり、それが正当に反映されたのだから、それでいいではないか、
>それを云々するのは、民意の否定だ、と。
 裁判員制度の本当の脅威(元「法律新聞」編集長の弁護士観察日記)
 http://kounomaki.blog84.fc2.com/blog-entry-510.html
 
積極的な導入側において、上記のような覚悟も無しに制度を導入したのか、といささか怒りを覚えさえする。
民意という点を強調する以上、前述したブログで裁判員制度の変更案について多少言及したが、現実性がどれだけあるというものではなく、
結局、制度の内容と裁判状況、政治状況等にかんがみて、裁判員制度をちょこちょこ手直しできる余裕があるようにも見えないので、当分は、刑事裁判はこのまま行く覚悟を迫られているのではないかと感じる次第である。
 
 
 多くを裁判員裁判について書いてきたが、起訴強制制度についても触れたい。
 尖閣諸島における不法入国事件が再度発生し、刑事処罰を求める国民の声も小さくないようだ。
 以前には、小沢裁判などの政治的な起訴もあったところだ。
 (なお、強制起訴事件での無罪率はかなり高いところで推移するように思われる。)
 
 起訴強制を積極的に導入したがった立場の人間が、政治的、世論の好悪による起訴をどれだけ念頭においていたのか、民意に委ねることで生じる結果を見通していたかにはかなり疑問がある。
 
 例えば、今回の尖閣不法入国事件は、政府としては粛々と国外退去で処理する政治方針(これは1つの政治判断であり、それとして受容されるべきところかと思われる)であるが、前回のように、その方針に反して、告発→不起訴→起訴相当→不起訴→起訴相当(起訴強制)の流れで、日本国の訴追が行われるという事態が生じる。
 複雑な利益判断である早々の強制退去が、事後の国民的感情で覆される(それは外国に対する日本国のひとつのサインになるわけだが、政治全体を見渡すことは当然検察審査会にできようはずもない)という問題が生じる。
 
 これは非常にデメリットな部分があると政治的にみれば思う。しかし、どうしようもない。
 この点も、裁判員裁判と同様、検察審査会という場において民意が一度放たれてしまった以上、国民感情を基礎とする、政治的、世論の好悪による起訴、そして裁判というものと向き合っていかなければならないのだと思う。