棠陰比事その1

一 僧侶の災難  (宋)
<概要>
箱車で夜を過ごしていた僧侶が、家に泥棒が入り女性を連れだし、衣類の包みを持って逃げるのを偶然目撃した。
僧侶は、その家の主人に家に泊めてくれるよう頼んだが断られ、箱車に泊まることを許してもらっていたことから、主人に泥棒と疑われて役所につきだすにちがいないと思った。
僧侶は、逃げ出して、夜中の草むらを走ったが、突然古井戸に落ちてしまった。
古井戸には、先の女性がすでに誰かに殺されて死体になっており、その血が僧侶の服についた。
その後、僧侶は役所につきだされ、拷問により虚偽の自白をし、女性を殺害した動機、不覚にも古井戸に落ちてしまったこと、盗んだ品物と刀は井戸のそばに置いたが誰か持っていったのだろうなどと話した。
他の者は自供を信じたが、向敏中は盗品も刀も見つからないことに不審をもち、重ねて僧侶を問いただしたところ、ついに僧侶はほんとうのことをいった。
向敏中は、村に役人をやって真犯人を探させた。飯屋で、都から来たと聞いた老婆が役人に、僧侶はどうなったかと問うと、役人はもう処刑されたとうそを言った。すると、老婆はためいきをついて「もしいまほんとうの犯人が捕まったらどうなるのでしょう?」「お上はまちがって罪を決めてしまった。ほんとうの犯人が捕まったとしても罪にするわけにいかんさ」「それなら言ってかまわんでしょうが、あの女性は実はこの村の若い某に殺されたんですよ」
役人が老婆に家を尋ねると、老婆は指さして教えた。
役人は、その家に行って男をとらえ、盗品も見つけた。僧侶は釈放された。

<感想>
・自白をさせるために拷問をするというのはしばしば出てくるが、これは当時の捜査手法として常套手段だったのでしょう。日本でも江戸時代には拷問を行っていた(正当な手段として)わけですし。
○盗品の近接所持(盗まれた物を持っている者が犯人であると強く推定される。)というのも、この本ではしばしば出てきており、証拠に基づく犯人認定の場合の、典型例だと思われます。現代であれば、DNA鑑定、通信記録、監視カメラなど様々な客観的科学捜査の手法が形成、発展していますが、当時にはそういった科学捜査が少なく盗品の近接所持は、犯人性を示す極めて有力な証拠だったということになるのでしょう。(ゆえにそれを逆手にとって罪を着せるような事件もありえるでしょうが)
・役人は嘘をついて、老婆から話を引き出しています。この後の話でも、犯人に嘘を告げて自白させるような事例もでてきます。広い意味でだまして情報を獲得することが、計略として賞賛されているのです。
現代における違法収集証拠の排除原則に対する示唆になりそうです。
・最後に、向敏中が、なぜ自白に疑問をもったかという点につき、文章にはあらわれていない点も含めて、推測をしてみます。まず、夜中の古井戸で盗品がなくなりそうな場所でないという事情があったのではないかと思います(これは文章に書かれていることからの推測です)、他にありえそうなこととしては、僧侶の事前の様子から刀などを持っていたと思われない、犯行の経緯に合致しないなどの事情があったり、犯行状況から必ずも自然でない事情など(例えば、不覚にも落ちる古井戸かどうかといったことなど)もあったのかもしれません。

<解説とその感想>
「鄭(正しくは左上が、八)克いう。思うに、裁きをなす者はあくまでもその無実を疑うべきである。罪人が無実を訴えなくても、急いで判決を下してはならない」

 この解説で、富山強姦冤罪事件を思い浮かべる人がいることでしょう。なぜ、裁判所は解説のいうとおり、被告人が争っていなかったとしても、疑問をもってもっと調べなかったのか、と。
 しかし、それは難しいことだと思います。
 ここで指摘したいのは、現代と古代では、場面設定、役人の権限・役割が異なるということです。この話に出てくる「向」は、捜査の指示をし、かつ、解説を見るに最終的な処罰を決めるのか、もっと直接的に執行する権限ももっていたように思われます。したがって、当時の中国の役人は、現代の日本における検察官と裁判官を兼ねる役割を果たしていたのでしょう。
 他方、現代において、捜査権者である検察官と、判断権者である裁判官が分かれていることには、歴史的意義と合理的な理由があるわけですが、それはともかく、現代の裁判官は、当事者主義の原則により、通常、法廷に出された証拠に基づいて判断するのであって、自ら様々な推測・憶測をして検察・警察に指示して捜査を行うことは許されないと考えられているのに対し、検察官は、訴追官・公判維持者として、証拠を自ら収拾するとともに、「公益の代表者」(最近は、様々な事情から、昔と比べて変容が見られるという見方もあるようですが)として真実発見を目指し、事件を適正に処理する責務を負っているのです。
 したがって、今回の解説を現代的に引き直すと、検察官に対し、被疑者が無実を主張していなくても、本当に無罪でなく有罪かどうか、補強するための諸種の証拠を収集確保し、分析する作業をしなさいと言っていると理解するのが現実的かと思います。